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カンニングと「学び」

 どうも、こんばんは、善浪です。
 暑いっすね。どうも9月いっぱいこの暑さらしいですよ。11月に残暑見舞いだすくらいで丁度いいんじゃないですか、今年は。

 さて、今回はこの話題です。

 早大生? Twitterでカンニング告白、教授の東浩紀氏が発見

 これは早稲田大学で東浩紀氏の試験を受けていたある生徒が、試験後ツイッターでカンニングしていたことを告白。それを東氏本人が発見し、その発言をリツイート。その事実が一気に広まってしまったという事件(というほどのもんでもないような気がしますが)です。
 
 この件に関しては「カンニングした上にその情報を公の場に告白するなんてバカじゃないの」や「たとえカンニングしていたとしてもそれを大勢に晒すのはよろしくない」とか「正式な処分あどうなるかわからないのに無責任じゃないか」など色々な意見が紛糾してましたけど、正直僕はそういうところは問題じゃないと思うのです。

 問題なのはその学生が、「カンニングしなければ試験問題も解けない程度の勉強しかしていないにも関わらず、試験には受かろうとしていた」ことであり、もっと言えば、そう考えることが学生の間では一般的な認識であったという点です。
 彼らにとってみれば、東氏の講義を受けて勉強することと、それについて試験することは別物だったのです。
 私はそこに驚きました。
 ごく自然にカンニングをする彼らの中には、「試験」=「今まできちんと学んできたことを試す」という認識が無いのです。

 私は東氏の講義を受けたことがないのでどういうものかはわかりませんが、受けてみたらつまらなかったのか、肌に合わなかったのか、少なくともこのカンニングをした彼がまともに講義を受けていたはずがありません。ひょっとすると出席すらしていなかったのかもしれない。出席だけとって、あとは寝ていたのかもしれない。いずれにしても、彼に東氏の講義から何かを学ぼうとした形跡はない。
 しかし、にもかかわらず、彼は「試験には受かろう」とした。
 奇妙です。
 「ある学問的領域について学ぶ意欲がない」と「試験に受かる」が彼の中では矛盾しないものになっているからです。

 もし彼が東氏の講義に全く興味がなく、まともな勉強をしていなかったのなら、試験で良い点数をとることなど出来ないことは自明です。にもかかわらず、彼(ら)は「受かろうとは」する。
 何故彼らは、まず興味もない東氏の講義を受講することに決めたのでしょう。大学で講義を選択することは、それで単位を取ろうとすることと同義です。単位を取りたいなら、興味がなかろうが勉強すればよかったのです。しかし彼らはその努力を放棄し、あくまでも単位「だけ」をとろうとする。
 しかしそれはどう考えても合理的ではない。

 もっと言えば、今回カンニングを告白した生徒はカンニングの用意すらしていなかった。問題用紙の前で頭を抱えていたら、隣の生徒が見せてくれただけです。
 つまり彼は、今回の試験をクリアして単位を取るだけの努力を何一つしていなかった。
 もしかすると彼も最初から受かる気はなかったのかもしれない。ただ隣の人が見せてくれたのでそれが自然なことと受け入れただけなのかもしれない。
 ただ、単位を取る気がそもそもないのなら、何故彼は問題用紙の前に座ったのか。万が一にも解けるかもしれないと思ったのか。
 いずれにしてもそう頭の良いことだとは思われない。

 何故彼らがそういう判断をするに至ったか。それはよくわからない。
 ですが、おそらく彼らは、試験問題が解けないことを自分の不勉強のせいだとは思っていない。
 もしそう思っていたのなら、恥ずかしくてカンニングなど出来ない。やむにやまれず(留年する危険があったりとか)カンニングしたとしても、それをツイッターに書くなど出来はしない。恥ずかしくて。
 彼らは、試験問題が解けないのは「意味のわからない試験問題のせい」「意味のわからない試験問題を作った東とかいう講師」だと思っているはずです(おそらくですが)。
 「私がこの学術領域について学ぶことも興味を持つことも出来ず、従って理解できないのは、教える側が無能だからである」そう考えている学生は結構多いものですが、とするならば、彼らは「学び」というものを根本的に誤解しています。

 誰かから何かを学ぶ際に重要なのは、実は「教える側」ではなく「学ぶ側」の姿勢です。
 「何を当たり前のことを」と言われるかもしれませんが、私はさらにこう言いたい。
 「教える側」に、誰かに何かを教えるに足る資質など全くいらない。というより、そんなものはない。
 「教える側」が教えられることは、実は「学ぶ側」が教わりたいと思っていることだけだからです。
 どういうことか。

 山本周五郎の短編に「似非物語」というのがあります。
 主人公は老いた農夫。ある日農夫は、剣術の達人と名乗る老人に「私の替え玉をやってくれないか」と頼まれる。農夫はそれを了承し、農夫のもとには達人の噂を聞きつけた若い剣士たちが弟子入りにやってくる。
 農夫は当然、剣術に関しては素人ですから、剣術に関することを教えることは出来ない。しかし弟子たちは、農夫と一緒に生活する中で、「師匠」の一挙手一投足から、剣術の奥義を「悟ってしまう」。
 ちょっと寒気がしたので農夫がくしゃみをすると、弟子はハッとして、次の瞬間、「なるほど、そういうことだったのですね、有難うございます!」といって真理を理解してしまう。
 こういったことが度々おこるので農夫は困惑しますが、結局その農夫がある伝説を作ってしまい、本当に「達人」になってしまう、というお話なのです。

 さて、ここで重要なのは、その農夫は剣術の師匠としては限りなく無能であるということです。そりゃそうです。替え玉何だから。この「師匠」は弟子に教えられるものは何も持っていない。
 一方、「弟子たち」はその事実を知りません。彼らは農夫を「達人」だと思い込んでいる。それは騙されているのですが、彼らは農夫を「自分たちに有意な何かをもたらしてくれる者」として見ています。
 その「何か」がなんであるか、差し当たって彼らにはわからない。しかし「師匠」はそれを知っている。今それを教えてくれないのは、まだ自分が教わるに足る人間ではないからだ。彼らのロジックはこうです。

 そうするとどういうことが起こるか。
 彼らは「師匠」の一挙手一投足から意味を「見出そう」とする。師匠の行動の一つ一つを、意味的なものとして捉えるようになる。バイアスがかかるのです。
 そしてある時、「あ、師匠が伝えたかったのはこういうことだったんだ」と理解する。理解するというより、それは元々自分が欲しかった答えを師匠に仮託しているのですが、弟子は師匠を通じてそれを確認するのです。
 だから彼らにとって、師匠が「本当は」何者であるかなんて、何も問題ではない。
 「師弟関係」とは、元来そういった構造を持つのです。

 今回カンニングをした彼らは、東氏に対して「自分に有意な『何か』を与えてくれる」可能性を感じることが出来なかった。というより、現段階では差し当たって明確ではない「何か」の重要性について想起することが出来なかった。
 にもかかわらず、東氏の講義を選択した。それがまず間違いだったのではないか。
 そして、未知の「何か」に対する探求心も、東氏に対するリスペクトもないまま、安易に卒業するために必要であることがわかっている「単位」だけを求める。
 私は、この姿勢から得られるものは、せいぜい「学んでいない領域を扱った試験をクリアする」ことだけであっって、それは大学で得られるもののうちでも酷く矮小な部類に入ることと断言します。


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 『似非物語』は短編集『花杖記』に収録。
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