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『空を見る人』

『空を見る人』

 友が死んでいく。
 戦場で、或いは病を得て。続々と死んでゆく。
 夏侯惇はその度に、年甲斐も無く号泣した。
 既に六十余歳を数えた男にしては感傷的に過ぎるだろうか。ましてや乱世である。人は死ぬときには、あっさりと死んでゆくものではないか。
 しかし夏侯惇という男は、おのれが感情を殺せないことをよく承知している。
 十四歳の頃、彼は自らの師を侮辱した者を怒りに任せて斬り殺した。戦においても常に勇猛に戦い、呂布との戦闘では敵の矢で左目を失ってなお敵陣に斬り込んでいった。
 激情のまま戦い、生きる。それがために窮地に陥ることもあったが、それは彼がおよそ誰にでも慕われる将である所以でもある。
「荀が死んでもう八年にもなるのか」
 坐臥に伏せっている痩身の男がしみじみと呟いた。体は病で衰弱しているが、その目に宿す光は、夏侯惇には未だ眩いように思われた。
 だがこの男も、もうじきに死ぬ。
 曹操孟徳が死ぬ。
 坐臥に横たわった曹操の言葉に頷きながら、夏侯惇はその事実を何度も反芻していた。俺はこの男の死に、果たして耐えられるのか。
 寝室には夏侯惇と曹操の二人きり、昔話に花を咲かせている。
 話しながら、曹操は度々窓の外を眺めた。つられて夏侯惇も見る。静かだ。一月の空は寒々しくも青く澄み渡っていた。

 『王佐の才』と謳われた荀文若が死んだのは、曹操が魏公に上る一年前の建安十七年(二一二年)。そうか、もう八年も前のことか。速いなぁ。
 時の流れはいつの間にか残酷なほどに速くなっていた。友の死を思い出すたびに、夏侯惇はそのことに戦慄を覚える。ここ数年は特に目まぐるしかった。曹軍のみならず、天下に名を馳せた者が次々に落命しているのだ。
 荀の死から二年後、その年下の叔父である荀攸が死去。さらに二年後、曹操の旗揚げ当時からの戦友であった、李典が呉との戦いの最中病没。同じく旗揚げ時から曹操の下にいた楽進は建安二十三年(二一八年)にやはり病に斃れた。
 夏侯惇にとって最も衝撃だったのは、従弟で、旗揚げ以前より長く共に戦場を走り回った夏侯淵が、昨年定軍山で戦死したことだった。夏侯淵は漢中を守備していたが、蜀を制した劉備との戦いに破れ、黄忠という武将に斬られたという。

 死んだ人間のことを話すのは、夏侯惇は嫌いだった。だが、老いて病を得て、やせ衰え、じきに死を迎えるであろう曹操を前にすると、不思議と何もかもが懐かしく思い出された。ああ、いい奴らだったとも。何せ俺たちと一緒に生きて、死んだのだ。
「しかし殿にとっては、関羽が死んだのが一番痛ましかったのでしょうな」
 夏侯惇は少しおどけて言った。
 関羽は昨年、劉備が漢中を制したのに呼応して、曹仁の守る樊城を攻めた。その勢いは凄まじく、援軍として送られた于禁は捕虜となり、龐悳は斬られた。さらに関羽の動きに合わせて魏領内で次々と反乱が起り、曹操は遷都まで考えたほどであった。
 だが、関羽は孫権と仲が悪く、曹魏と新たに同盟を結んだ呉軍に攻められ、麦城において孤立無援のまま戦い、捕らえられて首を斬られた。
「痛ましいとは思わんな。むしろ死んでくれて安堵した。あいつと戦ったことのあるお前ならわかるだろうが」
「巷では、殿が倒れられたのは関羽の霊に憑かれたからだ、ということになっているのですよ。まああの男がそんな回りくどいことをするとも思えませんが」
 知っているよ。ふふ、と笑って曹操は続けた。
「しかしそれはあながち冗談でもないな。ここのところずっと夢に関羽が出てくる」
 関羽だけではないぞ、董卓も呂布も袁紹も出てくる。それに、韓遂だろ、華陀に孔融に崔琰もいたなぁ。どの名も、戦で、或いは政で曹操と争い、敗れ、殺されたものたちのものだった。しかし彼らのことを話すとき、曹操の声は弾んでいる。
「憑かれているわりには、嬉しそうに話しますな」
「何も俺を呪い殺そうと怖い顔で睨んでいるわけではないのだ。皆ただ居る。それだけなのだ」
 おお、荀達にも会ったぞ。まああの男は生きているときから葬式に出てるような顔であったがな。
「呼ばれている、ということかな。天が彼らを俺のところに遣いに寄越したのかもな」
 眩しそうに目を細めながら、噛み締めるように曹操は話す。
 超然としている。これから別離しようとしているというのに。夏侯惇には、それが途方も無く寂しい。
「そのような迷信に憩う人でしたかな、殿は」
 にやにや笑いながら夏侯惇は茶化してみた。
「『盲夏侯』にはわからんかなぁ。戦ばかりしてきた鬼将軍には、人間の機微という奴が」
 『盲夏侯』というのは夏侯惇のあだ名である。左目の無い夏侯惇と、夏侯淵の二将を区別するため、誰からとなくそう呼ばれた時期があった。
 だが夏侯惇は、鏡に映った自分の顔を見るたび怒って鏡を投げ捨てるくらいに隻眼であることを嫌った男だから、すぐに誰もそのあだ名は使わなくなった。
「その名で呼ぶなと言っただろう、阿瞞!」
 流石にこの歳であるし、もう激することはない。だが、曹操が自分をからかっているのならばとこちらも曹操を幼名で呼んでみたのだ。
 『阿瞞』は曹操の幼名ではあるが、どちらかというとやはりあだ名の意味合いのほうが強い。『いたずら小僧』 といった程度の意味である。それとは別に『吉利』というのもあるが、彼を知るものは皆、阿瞞と呼んだ。
「ああ、ようやく惇らしい物言いになってきたな」
「ふん、しおらしく坐臥に伏せっておるようだから気を遣っておっただけだ。いちいち人の腹を立てさせんと思い出話もできんのか、お前は」 
 曹操と夏侯惇とは従兄弟同士である。曹操の祖父、曹騰は宦官だったので、跡継ぎとして夏侯氏から養子を迎え、その子が曹操であった。血縁者であり、曹操の幼い頃からの親友でもあった夏侯惇は、曹操から『不臣の礼』をもって遇されている。
 臣として扱わない。曹操の車への同乗や、寝室への自由な出入りすら許された。だから夏侯惇が曹操と対等に喋ることに、二人はおろかその他の臣であっても何らの違和も感じない。
 しかしいつからか夏侯惇は曹操の臣として振舞うことを望んだし、曹操もそれに応えるようになった。夏侯惇は曹操配下では唯一漢の官位を拝命している。それは渋る曹操に半ば無理やり願い出て、臣下の礼をとるためのものであった。夏侯惇がただ一個の友として接するには、私にも公にも曹操は巨大すぎる存在となっていた。
 だがもういいだろう。今この部屋にいるのは、ただの老いさらばえた腐れ縁が二人だけではないか。
 曹操はそう言っている。ならば応えねばならない。応えねば、我らの生涯は何だ。胸が熱くなる。残っている右の眼からは涙が溢れそうになった。
 なんだなんだ、大の大人が不細工面で涙なんか堪えてみっともない。まあ昔からお前は泣き虫だったものな、惇よ。
「お前は昔から嫌味たらしかったわ。だいたいやることなすこと阿瞞だったころとまるで変わらんではないか」
「違いないな」
 そう言って二人は笑う。夏侯惇の涙は右眼にためられたまま、何故か零れ落ちては行かない。
 少年の頃、二人は仲間を集めて盗賊の真似事などをやっていた。金品は言うに及ばず、食料や馬、果ては花嫁まで強奪したこともあった。
 うん、確かに、やっていることはたいして変わらないな。そう言って曹操はまた目を細めた。
「阿瞞に、天下は定められなかったな」
 大きく息を吐くようにして、曹操が言った。
「戦って戦って、戦うことであの頃は誰にでも天下が見えていた。しかし戦えば戦うほど、実のところは見えなくなっていったのではないかと、今になって思うよ」
「俺には最初から天下なぞ見えてはいなかったぞ。ただ曹孟徳が戦うというから、戦っただけだ。それ以外のことは、煩わしくって仕方なかったわ」
 馬に跨って矛を振り回しながら、戦場をどこまでも駆けていく。そういう人生が望みであって、それ以上の才能があるとは、夏侯惇には思えなかった。現に軍才は曹操旗下に名を馳せる綺羅星の如き将たちに混ざれば、至って他愛のないものであるとすら思う。
「はは、惇はわかりやすくてよい。でも、まあそうか。天下なんて、結局どうでもよかったのかも知れんな」
「それは聞き捨てならんなぁ、孟徳。お前一人の天下のためにいったい何人殺したと思ってる」
「それはもう仕様が無いな。せいぜいあの世で詫びるとしよう。そんなことより、な惇よ、俺たちは実によく生きたと思わないか」
 舌の滑りと共に、曹操の顔色が見る見る良くなっていくのがわかる。
「俺はな、最近『天命』というものをよく考えるのだ。俺たちが生きたということは、生きろといわれていたのではないか、とな」
 一つ間違えば死にそうな目にあったことは、数え切れないほどある二人である。だがそのたび死なずに、生きた。俺の中に天があって、それがために生きた、と言えばいいかな。もう少しで詩になりそうではあるんだが。
「難しい話だ。俺にはそれこそどうでもいい。が、お前がそう言うのだったらそれでもいいぞ」
 やはりわかりやすい男だ夏侯惇。美徳だぞ。詩才がないのだけが惜しいな。前に読ませてもらったやつは、酷かったからなぁ。何だとこの野郎、隠してあったやつをお前が勝手に読んだのではないか。ご丁寧に書き直して寄越しよって忌々しい。
「……阿瞞よぉ、俺たちはちっぽけだなぁ。こんな下らないやり取りがこれほど楽しい」
「ああ、ちっぽけだ。だが最近はもうそれでも何の文句も無い。ちっぽけな阿瞞のまま生きて、ちっぽけな阿瞞のまま死ぬのだ。それでよい」
 疲れたのでもう寝るぞ。そう言って曹操は、柔らかに微笑んだまま眠りにつき、夏侯惇は寝室を後にした。
 
 幼い頃、馬に跨れば天にも手が届くような気がしていた。馬上から見る天は、徒歩のときに見るそれよりもはるかに広い。
 だが天は常により高みにあった。馬上であろうが、楼閣に登ろうが手を伸ばしても掴むことなどできない。
「それでよい」
 と言う。曹操は天をおのれの中に見たから。俺はどうか。
 曹操の邸宅からの帰り道である。馬上の夏侯惇はそればかりを考えていた。
 自然と空を仰いだ。ああ、雲一つない。蒼天よ、既に死んだのではなかったのか。
 人は天を畏れ、敬う。あまりにも広大なる蒼天。あまりにも清澄なる蒼天。天の下に俺は一人。
「寂しい」
 ふとそんな言葉が口をついた。寂しい。ああ、或いはお前もそうなのかもしれないな、阿瞞よ。寂しいから、奪ったのだな。寂しいから、戦ったのだな。何だかなぁ、悲しいなぁ俺たちは。
「夏侯将軍」
「ん……仲達か……」
 気がつくと司馬懿が共を連れて反対側からすれ違うところであった。夏侯惇の横に馬を並べて、一緒になって空を見上げている。
「空に、何か見えるのですか?」
「いや、何ということは、ないが」
 司馬懿は丞相府へ赴くところだった。ここのところ忙しそうだな、司馬懿。まあ無理もあるまい。
「曹操が死ぬのだからな」
「滅多なことを、将軍ともあろうお人が」
「孟徳亡き後は、子桓に。その準備は滞りなくな。身内の混乱は避けなければ。せっかく外敵がいがみ合っているのだからな」
「それも、なかなか大変です。劉と孫は盟を違えましたが、劉の動きは不気味なほど慎重です。関羽の仇討ちのつもりならば、もっと早くに攻めても良いように思いますが」
「劉備という男は、あれで案外強かな奴だよ、仲達。この乱世を生き延びてきたのだからな」
 そうは言うが、司馬懿にはおそらく劉と孫の内情など殆どわかっているのに違いない。それでも謙遜して見せるようなところは、やはり食えない。
 現在、曹操幕下の謀臣の中でも、司馬懿の軍才は図抜けている。曹操の死後は対外戦の中心を担うであろう。
「お前の作る軍に、俺は要るまいな」
「そんなことはありませんよ。今天下に夏侯元譲ほど慕われている将はおりませんからね」
「そうか。しかしなぁ、近頃は無性に病臥に伏せりたくて仕方がなくってな」
「はぁ」
 司馬懿は呆気にとられたようだった。夏侯惇自身でさえ、己の言葉を疑った程である。だが極々自然に口を衝いた言葉である。ああそういうことか。ようやくわかった。
「そういうわけで、悪いが俺を当てにはするなよ。若い将を使え。兵を休ませるな」
 その話は、また後ほど。司馬懿は殆ど呆れながら夏侯惇に一礼して、丞相府へ向かおうとした。
 うん、また今度話そうか。司馬懿が横を通り過ぎていく間、再び夏侯惇は空を見上げていた。
 ああ、ああそうか。人は天を畏れ、敬い、そして愛する。そうだ、それはきっとこんな気分になったとき、天を仰がずにはいられないからだ。それが『天』か。
「はははははは、司馬懿!」
 はっ、と叫んで司馬懿が振り向いた。彼の首は完全に真後ろまで回る。その格好で、驚いている顔がなおさらおかしくて、夏侯惇は笑い続けた。
「ははは、仲達よ、俺は俺の中に天を見たぞ!」
 司馬懿は馬鹿みたいに口を開けて、狂ったように笑う老人をぽかんと眺めている。
「つまらん人生だった!」
 ああ、つまらん人生だった!しかし何と得難い!
「司馬仲達よ、戦場は広大だぞ!」
「……は!それは、中華のみならず烏丸、匈奴、鮮卑、南蛮、西域の果てまで、戦場と心得ております!」
「まだだ、まだ狭い!」
 己の生そのものを天下と心得よ。戦うべきはそこぞ!
 言い終わるなり、夏侯惇は馬腹を蹴って駆け出した。阿瞞、阿瞞よ、曹孟徳よ、俺は、俺たちは生きたぞ!紛うことなく天下に生きたぞ!
 駆けて、駆けて、駆けて、天に届くかどうかは、もう考えなくて良かった。

 夏侯惇。字は元譲。豫州沛国譙県の人。
 若い頃は剛勇をもって知られたが、性格は清廉潔白。お金が余れば人に分け与え、日頃から学問に励むことを忘れず、将軍になってからも治水工事の折には自ら人足に混じって土嚢を担いだ。
 建安二十五年一月二十三日、曹操が死ぬとその数ヵ月後、後を追うように病に倒れ、この世を去った。諡は「忠公」。
 許昌で発掘された彼の陵墓には、埋葬品として剣がたった一振り、添えられているだけであったという。
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ジャンル : 小説・文学

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