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続・巨大ロボットは何故人型なのか

 さて、一週間ぶりです。善浪です。
 先週は「巨大ロボットが人型である理由」としまして、『プレゼント仮説』を挙げました。
 人間が二足歩行になったのは、自分以外の他者に贈与するためでした。人間は二足歩行という形態自体に、贈与し、贈与され、共に生きるものとしての性格を見出す。そう考えるなら、巨大ロボットにも同じことが期待されていてもおかしくはない。そういう話でした。

 しかし、そうなると一つ問題が生まれます。
 巨大ロボットはたいていの場合、戦闘用に造られているのです。
 こうなると私としては困ります。今回は何とかして、巨大ロボに戦う以外の価値を見出してやらねば哀れというものです。

 兵器としての巨大ロボの在り様はモビルスーツなどに顕著ですが、彼らは人型であることが兵器として最適格であるからこそ創造されたのでした。
 しかし前回も述べたとおり、人型というのはそもそも戦いには向かない形なのです。
 おそらくですが、モビルスーツとゾイドが似たような兵装でガチに戦ったとしたら、多分ゾイドが勝つと思います。二足の人間と四足の獣の間には、埋めがたい差があるのです。それは、「戦闘を存在要件に据えているか」という差。
 人間はかなり早い段階で、「戦う」という生存戦略を中心に生きることを退けました。これは、ほかの四足獣に身体能力が劣っている以上、ある意味当然の帰結だったと言えるでしょう。
 戦うことを捨て、共同体全体として生き残ることを選択したからこそ、人間はコミュニケーション能力に特化していきます。
 そして、その共同体に参加している者の象徴として、「二速歩行」という型が人間の在り様として刻まれたわけです。つまり、「お互いにコミュニケーションを取ることが可能的である存在」、もっと言えば、「自分の生存を担保してくれることが可能的である他者」として、二足歩行は認識されていったのですね。

 そうすると、戦闘用の巨大ロボにはその誕生からして矛盾が生じてしまいます。
 他者を生かし生存するために、戦いを捨て選びとったはずの人型なのに、彼らにとってそれは、戦い、他者を殺すのに最適格であるとされる型なのです。
 兵器としての合理性の話は専門外なので置いておきますが、戦うために戦わない為の型を与えられているのだからひどい皮肉です。しかし、この矛盾に突破口がありそうです。この辺少し掘り下げてみましょう。

 生身の人間でも、戦う人はいます。武器など使わなくとも四足獣を相手に戦って勝てる人間もいるでしょう。そういう人たちは特別な訓練を積んで、「人型」という形を最大限活用し戦います。本来戦闘に不利になるはずの「人型」が逆にアドバンテージになるように、最も効率的な身体の利用法を模索します。
 しかし、「人型」が戦闘をするのに最も効果を発揮するのは、同じく「人型」を相手にする時なのです。当然ですね。獣を相手にすることを前提とした格闘技などありません(あるかもしれないけど)。格闘技というのはあくまでも人間同士、同じ条件を持つ相手を殺すための技術です。
 しかし彼ら(格闘家)はあくまでも人間です。彼らは何も「戦闘を生存要件に据えている」から格闘技をしているわけではない。彼らは差し当たって、獲物を獲ってこないと飢え死にするわけではないし(そういう人もいるかもしれないけど)、ほかのオスを殺さないとメスを手に入れられないわけでもない(手に入らないかもしれないけど)。
 格闘技の術理のなかには動物的な生存本能が入る余地がありますが、格闘技を始める動機の点に関して言えば、それはおそらく酷く人間的なものであるはずです。

 それらを考慮に入れて、ここでも私は暴論を展開させてしまいます。
 つまり人間にとって闘争とは「コミュニケーション・ツール」ではないか、という仮説です。
 
 人間は他者とのコミュニケーションに特化した動物であったことは先にも述べました。(余談ですが、人間の白眼がほかの動物に比べて大きいのは、他者に自分の見ている対象がわかりやすいようにといいます。ここでも野生の合理性を捨て、他者と一緒に生き残ろうという努力がみえますね)
 ヤンキー漫画や格闘漫画には顕著に現れていますよね。そういった作品に登場する主人公の心の叫びはほとんどの場合「俺を見ろ!」という獣には持ちえない衝動です。彼らはアイデンティティとして戦うことを選び、他者と戦うことで自分というものを確立し、自分の存在を確立させてくれる他者の存在を容認します。私はそれもまた、人間的なコミュニケーションであると思います。というのは、こういった行為は、一度戦うことを捨て、その上でもう一度主体的に戦うことを見つけなおした者にしかできないことだからです。
 それは「贈与する者」としての人間の在り様に矛盾しないのではないか。

 前回と同じ展開になりますが、私はこれも巨大ロボに言えることだと思います。
 彼らはただ戦うのではない。戦うだけなら別に格好良い人型ロボットである必要はない。彼らは「戦い」に対する人間の表現そのものなのです。
 巨大ロボ(に乗った人間)は他者と戦い、その戦いを通して他者と対話し、理解し、最終的には他者を殺し、あるいは殺されます。戦闘というのは、人間にとって元来そういう行為なのですが、それを人間以外のディスコミュニケーションを常とする「物」がやるからこそ、その戦闘の意味が際立つのではないか。
 
 またしても長くなりましたが、私は今、そういう考えのもと小説を書いています。
 まあどうでもいいっちゃあ、いいんだけども。
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