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2011年と絆ブームについて考える。その2

寒いですね。ただ、ここ数日はまだちょっと昼間暖かくて眠くなりますが・・・

早速ですが前回の続きです。


前回は絆の大変さみたいなものを考えましたが、今度は、絆の危険性について、予告通りに考えてみようと思います。前回の前半で、年末は絆報道ばかりに目がいって、実際孤独な人、困っている人に目が向かなかったんじゃないか?みたいな話をしましたが、実際問題現代社会は絆に良い意味でも悪い意味でも縛られている人も居ますが、絆自体が持てない人も居る訳です。

絆への参加は努力が必要だし、プライバシーは制限されるけれど、その大変さの分だけ助け合いが有る。これは程度の問題であって、善悪とは全く関係の無い問題だと思います。慣れ合うのが好きな人はそうすればいいし、人づきあいがそんなに好きでない人は其れなりの繋がりで生きていけばいいだけの事なのではと。両者ともどちらが勝るとか劣るとかは無いと思います。

ただ、絆の程度の問題はそれで話は付きますが、絆の有無になると話は別です。美味い物を食べても、あんまり美味しく無い物を食べても、どちらも餓え死にはしないので、割と大した事の無い問題です。ただ、食べられるのと食べられないのとでは、生きるか死ぬかの重大な問題に成るわけです。

絆でいえば、絆が有るか無いかの問題となります。言いかえると絆に入っているか、入れないかの問題です。別に好き好んで、一人で森の中で暮らしたい!みたいな場合は別に良いと思うのですが、何処かの絆に入りたいのに、入れてもらえない、入っていたのにも関わらず、強制的に脱退させられたというのは野放図には出来ない問題なのではないかと。

特に後者は昔から良く使われた「村八分」というシステムによくあらわれています。昔は一つの村で取れる作物に限界が有ったので、どうしても人口が増えると切り捨てなければならない人員と言うものが嫌でも出ます。いざ切り捨てると言ってもなかなか仲間内で、そういう序列は決めづらいので、予め仲間はずれを作っておく、若しくは昔は今ほど豊かでないので、何か理不尽が有っても娯楽で解消と言う事は難しいので、差別する人を予め決めておいて、その人よりは自分達の方がまだ待遇がマシだみたいな風に思って気持の整理を付ける。といった具合に色々な形で、絆の中の人間と外の人間を分けてきました。江戸時代には国を挙げて被差別民を作ったりして政策的にそれを行い、農民たちの感情の矛先を幕府に向けないようにしたりしていました。

これは一種の絆の制度的欠陥と言っても良い物かもしれません。絆というものを確認すればするほど「助け合える仲間」だけではなく「助けなくていい余所者」の存在が浮き上がってしまうのです。そしてそれが極限に達すると、「助けなくてもいい余所者」はその存在すら認識されなくなります。2011年の派遣村が開催されなかった原因でもふれましたが、絆に入れない人への無関心さという問題もこれからの社会の課題かもしれません。

ただ、「絆に入れない人が居るという事実を認識さえしない」という病理は実は絆を持っている人だけではなく、絆を持っていない人にも言える事かも知れません。都市化が進むと、別に一種のコミュニティに参加しなくても生きて行けます。都心のワンルームマンションなどに住んで、朝から晩まで仕事していれば基本的には、周囲にどんな人が住んでいるかなんて知らない場合は良くあることですし、当然、近所付き合いも皆無でしょう。仕事をしている場合は、仕事を通して一種の集団に属しているので、ある種の絆の中に居ると言えなくもないですが、昔の様なアットホームな職場はもう殆ど無いし、逆にあっても、社員に情で訴えて過剰労働させるブラック企業も中にはあったりもしますし、それこそ、急に派遣切りなどのように解雇されてしまえば、そのか細い絆の様な物まで何時でも断ち切られてしまう危うさが有ります。

ここまで辛い立場の人で有れば、自分の属する絆の有無を感じる事は容易でしょうが、ただ、其処まで貧窮していない場合、あんまり改めて自分は孤独だぁと感じない人も居ると思います。確かに孤独なのに何故、孤独を感じないか?別に単に鈍感なだけとか、孤独が好きと言う場合は割と悪い事では無いと思いますが、一種危険な一体感みたいなものを昨年に私は感じました。

震災間もなく、絆とか頑張ろう日本などのスローガンが前面に出された頃の違和感は記憶に新しいです。原発が爆発したのに、今は東電批判も自粛しようみたいなムードが今でも続いていますが・・・それは置いといて、絆!絆!と騒いで、絆婚とか、家族の大切さとかワイワイ盛り上がりましたが、そういう輪に物理的に入れない人も沢山いるはずです。ただ、盛り上がってるのに、水を差すのは雰囲気的に良く無い。僕等には絆が無い!とか叫べない。さてどうするか?と成った時の感情の行き場の一つが「頑張ろう日本」だった様に気がします。

要は、家族とか、地域とか、恋人・友達とか・・・そういう絆は無いけれど、日本人という絆で結ばれているっ。ワーッ!みたいな空気です。本当は新しく趣味の仲間でもいいし、ネット上の馴れ合いでもいいから、話あえる人を作る事が大切なのに、日本人と言う絆の中に居て、騒げばOKみたいなノリが広がってしまったのです。そういう意味で2011年はナショナリズム的なものが日本でも強くなった気がします。

例えば、震災後、領土問題や韓流のメディア侵略の問題がネットで盛り上がりまくったのは、こういうナショナリズムの盛り上がりが原因なのではと思います。ただ、過激に炎上さえしなければ、日本が長年先延ばしにしてきた話題、国際問題などを再認識する機会に成るので、100%悪い事だとは思いません。ただ、やはり限度は必要だと思います。そういった意味で人々の自覚症状の無い孤独がナショナリズムに繋がっている感じは、あまり野放しに出来ない問題な気がしますし・・・

村八分も問題でも触れましたが、ナショナリズムや集団心理が絆として作用してしまった場合、「自国民でない人」や「自分達と主張が違う人」が差別の対象に成る可能性があるのも注意すべきです。前者で有れば、かなり偏った人種差別に繋がりますし、後者であれば「空気読まない人は悪」みたいな流れに成りかねません。

そんな訳で、絆って凄いけど怖いなぁと思った2011年でした。

余談に成りますが、2011年に限らなければ、実は日本の20世紀は前回も紹介した松本清張を中心に、絆からの脱却が論壇の一種のテーマだった気がします。阿部公房なども、砂の女などで、共同体の中で理不尽を許容させられてしまう危険性を示しているし、ごく最近まで人はどれだけ集団の慣習では無く、自分の意思で良く生きようと頑張れるか!みたいなテーマが結構あったと思います。

戦前生まれの世代の作家にとってやはり村社会の絆は、愛すべき所も有りますが、それ以上に危険性を秘めたものだったのでしょう。絆からの脱却、一人でも強く生きていける個人と言うのが求められた時代の作家は、もう殆ど亡くなって、ある意味彼等の夢見た「個」の時代が来ましたが、そんな世の中で次は作家も学者も「絆」が大切だと訴え始めています。これはたぶん、ゆとり教育と詰め込み教育がしょっちゅう入れ換わるように、「絆」がもてはやされる時代の次には、「個」の意思が持てはやれる時代が交互に訪れる。そういう構造のものなのかもしれません。要は一長一端で、絆が正解では無いし、個が全く悪い事なのではない。そういう事を認識できる事が大切なのかもしれませんね。

まあ、僕自身は割と一人とか少人数でも楽しめる派なので、少し「絆」を酷評気味にしてしまいましたが、今も「絆」は流行していますし、流行っている時に流行ってる方を応援しても詰まらないし、クールじゃないので、こんな具合のエッセイもどきに成った訳で・・・

ただ、あまり深刻に考えなくてもいい事なのかもしれませんが・・・
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